私が考える和ろうそく職人とは、手掛けが出来る事が条件と思います。
3年では、条件がそろえば何とかできるが、暑いとき寒いとき湿度の多いとき、乾燥しているとき、また、蝋の温度、その時の体調など条件が変わったときその時どう対処すればいいか解らない。
その事を総合的に体得できる様になるのは、やはり10年かかる。
最初は挫折のくり返し、どうして手だけであんなにそろった物が出来るのだろう。
大量生産時代に、逆行したような、手作業。
生産性とか、効率性とか、利益率とかその様な世界からは無縁の忍耐の作業が続く。
しかし、それだけを続けていたのでは、希望がない。
 
その中にでも、よそと違う自分独自の特徴を持たせなければ、なりません。
試行錯誤の上、まだ満足ではないにしろ、ようやくそれなりのものができた時は感激しました。

そんな事から、今の時代ではこの技術は第三者には伝えられないと思う。
まず、3年もの間人件費を払い続ける資金がない。
その初心者の失敗作を全て手直ししなければならない、手間は3倍以上かかる。それなら、最初から自分がつくった方が早い。継承するなら、血縁者しかいないと思う。
自分の息子で、やる気があるなら、覚えるまで頑張れる。

昔の職人は、世間が皆貧乏だったから、口減らしのため、食べられるだけで良かった。
現在は、それでは誰も協力してくれない、何もできなくても日当は払わなければならない。
そんな事は、零細企業の和蝋燭屋に出来るはずはない。
当社は女性パートに来てもらっているが、手掛け作業はしてもらっていない。

ハゼ蝋の原料価格は、例の白いパラフィンの15~20倍、手掛けで作ったときの手間は時間で8倍、純正の和ろうそくは、手間がかかることをご理解下さい。

私は、21歳に家に帰り、蝋燭修行に入りました。最初は、芯切りから、慣れないと芯先をよくとばします。蝋は、失敗しても何度も溶かせますが芯は、元に戻りませんから、結構原料代の比率が高いのです。

 
 
祖父が隣町のマキノ町出生で、名前は大西與一郎。家は名前に與がついている人が多く。それで大與。
当時(明治時代)主要産業だった和蝋燭の修行に大阪に13歳で丁稚奉公に行った。
21歳で田舎に帰ってきたがマキノより、人口の多い今津で店を開いた。
子供が多かったので多分苦労したと思う。
私は子供の頃から、母親に長男は家を継ぐ者と育てられ当たり前に家業を継ぐことになった。
京都、松栄堂(お香の専門店)でよその飯を食べてこいと修行に出され、21歳の時、帰郷し、それから蝋燭修行に入りました。
最初は、こんな事は人間技では出来ないと思った。何回やっても形にならない、座ることすらが大変なことだった。
 


父は、私が高校2年の時、廃線になった江若鉄道に勤めていた。父はそれからろうそく屋になった。

祖父は90歳まで現役で教えてくれた、教えてくれたと言っても、何も言わない「これで、ええ」「こりゃ、まだあかん」こんな事ぐらいです。
県や町や伝産協会から伝統を守ったと、表彰されその明くる年、永眠した。もし、もっと早く死去していたら家業は継承出来なかったかもしれない。

 

それから、和蝋燭を手で作れる人間は当家で私だけになってしまった、その時は自信がなかった。
しかし、人間は追いつめられると、そこで何とか生きようとする。

追いつめられるのは嫌だが人生そこで新しい物が生まれる、自分の人生は自分でしか生きられない。

そんな事こんな事を、繰りかえしながら今に至ります。

 
 
   
ハゼ蝋は江戸時代に琉球より渡来したといわれています。
(ハゼの木今昔物語 p.40)
特に外国ではジャパンワックスと言われ非常に高い評価を得ています。
ハゼ蝋は日本での品種改良により、灯明用として最適の蝋に、進化しました。 一般の人は、高価な和ろうそくはなかなか使えなかった、灯明油しか使えませんでした。

 

先ほどの話ですが、なぜ生産されないか、生産性が悪い、櫨実の全量から約20%以下しか取れない。
非常に手間がかかりまた、危険も伴う(高い木に登るため)現在はその様なことをしなくとも稼げることはある、また、老人の小遣い稼ぎでもあったが、福祉の充実によりその必要がなくなった。

     

櫨採取業者、松延忠雄様
 
ハゼ蝋はウルシ科の植物、だからかぶれます。かぶれる事で地元の人には嫌われているようですが、その優れた性質は他の蝋にはありません。

終戦後、戦地からの帰還兵が本土に降り立ち、夕日の中に櫨の木を見たとき涙が止まらなかったと、あるパンフレットから読んで、こちらまで感動しました。

現在は主に九州で採取されます。 ハゼ蝋が九州の人々に与えた影響は大きいと思います。

そして、櫨に日本の伝統文化を感じました。
櫨を、充分理解して大事に和蝋燭を生産しなければと思います。

 
搾り方には玉搾りと、溶剤抽出があります。一口で言って玉搾りは粉砕した櫨の実を、熱を加えて圧力で搾ります。抽出法は溶剤で蝋を、抽出する物です。
製蝋業者の方々
左が木蝋組合長の荒木製蝋様、右が亀崎製蝋所様です。
荒木精蝋=溶剤抽出 亀崎精蝋=玉絞り

亀崎様とは私が子供の時からのおつき合いです。
2002/3 亀崎様が高齢のため廃業されました。長らくありがとうございました。

 
 

 

「昭和福ハゼ」
茎房が短く、果実は中粒で核が細い。果肉が豊富であるため、蝋の含有量が多いことは最高である。蝋の色はよいが質がやや軟らかく、隔年結果の傾向が強い。
長崎県島原の原産で、原木は島原市千本木にある。

「葡萄ハゼ」
茎房が長く、実は最も大きく、蝋の含有量も昭和福ハゼについで多い。蝋質は硬く粘りもあり特殊用途にも使用され、優良品種であるが隔年結果の傾向が強い。
和歌山県原産で、九州では宮崎県が多い。

 

「伊吉ハゼ」
実は大小の二種類あり、大粒の方が優良である。
枝条がよく繁茂し収穫量も多い。蝋質は粘りがあり、豊凶の差が少なく、やや晩生で収穫も20日ほど遅れる。
枝はよく曲がり採取には便利で横広い扇形の見事な樹形となる。
福岡県三井郡の原産で、筑後地方に多く栽培されている。

「松山ハゼ」
は果肉が多く、蝋分も多い。隔年結果の傾向がある。
やせ地の栽培にも適するので、全国各地に普く栽培されている。
福岡県浮羽郡の産である。

 
 

「王ハゼ」
形は松山ハゼに似ているが、茎房は長く、果実は中粒である。蝋分が多く、蝋質も優良である。愛媛県の原産で、原木は同県周桑郡中川村にある。

「利太治ハゼ」
小粒多産で隔年結果もなく、蝋分も比較的多い。愛媛県宇和郡宮内村で発見されたもので、愛媛県下で、多く栽培された。原木は同県宇和郡宮内村にある。

「南京ハゼ」
街路樹、植物学的には全くの別物。蝋は採れるが蝋燭にならない。佐賀には多い。

 

このごろ、櫨を、色々調べるうちに、暖かい地方は櫨、寒い地方はうるし蝋でなかったのかとの疑問を抱くようになりました。と、申しますのも、ハゼの蝋燭はきれいに燃えるのに、寒い地方の和蝋燭は煙も多く蝋が流れるとの、言葉も聞かれました。

あるところでこのような話を聞きました。
薩摩の島津藩が、櫨蝋を搾り始めたのは、東北地方に働きに行っていた人が同地方でウルシの実を搾っているのを見て、薩摩にも似たような実があると言って真似たのが櫨搾りの始まりと言われています。
その後、生産性のよいはぜ蝋にウルシ蝋が押されて、暖かい地方の生産が主になったとのことで、最初は東北地方のウルシの実を絞ったのが始まりと言われています。
昭和38年に日本の漆蝋を搾ることはなくなりました。

このページの最初に書いてある、琉球より来たとありますが、それは、より昔の話と思います。
なぜ、なんのために琉球よりその昔、渡来したかと疑問は残ります。
蝋を絞るため以外に何の目的があったのか疑問です。
また、調べられましたら書きます。
ご存じの方がおられましたらお教え下さい。

2000/9/21に解ったこと
八女に行った時、荒木製蝋様と少し話しました。
その時の内容です。

薩摩藩が櫨を藩の専売とし、重要な産品として藩外に流出することを厳しく取り締まったことは以前から知っていました。
東北から帰ってきた薩摩の蝋搾りの職人が薩摩で始めましたがなぜ、薩摩だけに櫨の木があったか?
それは、他藩はそれから、蝋が採れることを知らなかったのでは?
藩主は、そのことが知れるのが怖いからより藩外に漏れることを恐れたのではないか?
その証拠に、多品種です。
時代が進むに連れ、各地でその産業が興った物と推測されます。

また、話は品種改良に進みますが品種は突然できる物で人が作為的に改良などできる物では、ないそうです。
接ぎ木でしか櫨蝋はできませんが、全て接ぎ木でなくtestとして種も蒔くそうです。
突然変異で、選りすぐれた櫨実ができる可能性があるとのことです。

 
 
 
 
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